「コンヴィヴィアリティのための道具」

イヴァン・イリイチ(Ivan Illich 1926-2002)の「コンヴィヴィアリティのための道具」(1973)は、1970年代当時の産業主義を批判した重要な論考だ。私自身は、大量生産を行ってきた先進国の次の世界観、途上国の今後の世界観、それらとオープンソースハードウェア/パーソナルファブリケーションの可能性を結ぶ論考として重要性を感じている。論考が非常に難解であることから理解が間違っている可能性は残るものの、印象に残った部分をまとめてみよう。

※「コンヴィヴィアリティのための道具」の要約はこちら(http://www.syugo.com/3rd/germinal/review/0042.html)にあります。このエントリを書く上でも参考にさせて頂きました。

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コンヴィヴィアリティとは

少し長いが、まずはコンヴィヴィアルという概念について。

人々は物を手に入れる必要があるだけではない。彼らは何よりも、暮らしを可能にしてくれる物を作り出す自由、それに自分の好みにしたがって形を与える自由、他人をかまったりせわしたりするのにそれを用いる自由を必要とするのだ。富める国々の囚人はしばしば、彼らの家族よりも多くの品物やサービスが利用できるが、品物がどのように作られるかということに発言権をもたないし、その品物をどうするかということも決められない。彼らの刑罰は、私のいわゆる自立共生(コンヴィヴィアリティ)を剥奪されていることに存する。彼らは単なる消費者の地位に降格されているのだ。
産業主義的な生産性の正反対を明示するのに、私は自立共生(コンヴィヴィアリティ)という用語を選ぶ。私はその言葉に、各人のあいだの自立的で創造的な交わりと、各人の環境との同様の交わりを意味させ、またこの言葉に、他人と人工的環境によって強いられた需要への各人の条件反射づけられた反応とは対照的な意味をもたせようと思う。私は自立共生とは、人間的な相互依存のうちに実現された個的自由であり、またそのようなものとして固有の倫理的価値をなすものであると考える。私の信じるところでは、いかなる社会においても、自立共生(コンヴィヴィアリティ)が一定の水準以下に落ち込むにつれて、産業主義的生産性はどんなに増大しても、自身が社会成員間に生みだす欲求を有効にみたすことができなくなる。

コンヴィヴィアリティとは、人と人、あるいは人と環境と交わる際の「相互依存のうちに実現された個的自由」を指している。そして、論考のタイトルにある道具とは、いわゆる手に取れるハンマーのようなものだけでなく、機械や生産設備、義務教育等、「合理的に考案された工夫すべて」を指している。ここでの道具は、広義の「デザイン」という言葉に近い。そしてこの論考では、コンヴィヴィアルな社会の実現に向け、道具の効率性(=合理的に考案された工夫)に対して課せられるべき限界を明らにし、人々が創造的に生きることが可能な道具のあり方の探索が行われいる。

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産業化の弊害

人々は生まれながらにして、治療したり、慰めたり、移動したり、学んだり、自分の家を建てたり、死者を葬ったりする能力をもっている。この能力のおのおのが、それぞれひとつの必要(ニーズ)をみたすようにできているのだ。人々が商品には最小限頼るだけで、主として自分でできることに頼るかぎり、そういう必要(ニーズ)をみたすための手段はあり余るほどある。こういう諸活動は、交換価値を与えられたことはかつてなかったけれど、使用価値をもっている。人間が自由にそういう活動をすることは、労働とはみなされない。

産業化が進むにつれて、交換価値をもつ諸活動は専門性を高め制度化され、交換価値を持つものだけが「労働」とされた。その結果、例えば医療では、医師という専門職により医療手段が独占された。さらに、医師の訓練期間が長期化することにより、医療サービスの希少性が高まり社会成員の医師への依存、という構造ができあがる(以前は、呪医、民間医が効果的な処置を行っていた)。進歩は依存の増大ではなく、自己管理能力の増大を意味するはずであるのに、医療の対象拡大と公に保証された品質への過剰信頼から、人が本来持っているはずの治療者となる能力は不能化する。さらに、自分の体にも関わらず主体性を失い、人々がその管理に関して無関心・無責任となり、全面的に医師任せの思考停止した状態、文化的医原病が発生する。

このような問題は医療に限ったことではない。冒頭のコンヴィヴィアリティに関する引用にあるとおり、「富める国々の囚人はしばしば、彼らの家族よりも多くの品物やサービスが利用できるが、品物がどのように作られるかということに発言権をもたない」、自らの必要性に従ってものをつくり、生活環境に主体的に関わるということは希薄化してしまった。生活を良くするということはどれだけよい商品を購入し所有するかということとほとんど等価で、「何を買うか」が重要な関心事なのだ。医原病のような無関心にくらべれば、現在では生産に関する消費者意識は高まっているが、生産者と消費者という構図は根強く、生活のために「ものを作る能力」が活用される場面は非常に限定的であるし、生活は「生産者」によって限界づけられている。

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誰でも生産者の時代?

とは言え、それではみんな生産者になればよいのかというと、そうではないはずだ。生産の自由が極大化した社会に関しては、「誰もが生産者になれる訳ではなく大きな格差を生む、あるいは生産してよいものに関する倫理的な問題を孕む」という話もある(「広告」2010年4月号 特集「生産する生活者」)。私自身も自分でものを作る経験はまだまだ乏しく、自分の生活に必要なものを全てを作ろうとも考えていない。誰もが生産者になる、必要なものを全て自分で作るということは理想的である一方で、理想でしかないとも言える。考えなければならないのは、現在の「生産者」任せの依存した限界的な状況を改善するということで、これは、現在の大量生産型の閉じられた生産様式だけでなく、開かれた複数の生産様式を持つことが鍵と成り得るということだ。

イリイチは、コンヴィヴィアルな社会の実現に向けた指針の1つに「科学の非神話化(=身体から外在化し権威を持った知への思考停止の回避)」を掲げている。「世界についての情報は、有機体が世界との相互交渉を通じて、有機体のなかにつくりだされるものだ」とし、自ら学ぶという行為を取り戻す必要性を説いている。

人々は自分が教えこまれたことは知っているが、自分のすることからはほとんど学ばない。

「自分でつくる」ということは自ら学ぶ機会で、出来たものにオリジナリティが無いとしても、ものの裏側の技術の理解や、創意の過程を追体験する重要なプロセスでもある。オープンソースハードウェアは個人やコミュニティがアクセス可能な技術を提供し、生活から隔離され隠蔽された技術を再び日常へと取り戻す、開かれた学びの機会である。こうした機会は先進国でも途上国でも重要な意味を持つ。先進国ではものを作るということへの無関心を改め現在の消費と生産を連続させ可能性として、途上国ではものを生みだす機会として。(もちろん、オープンソースハードウェアやパーソナルファブリケーションにはこの他にも様々な可能性が見いだせる)

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tinkering

オープンソースハードウェアのArduinoには哲学があり、その流儀のひとつにtinkeringがある。

tinkeringとは、あなたが好奇心、空想、奇想に導かれて、やり方の分からない事柄に挑戦することです。tinkeringに説明書はありません。正しいやり方や間違ったやり方はなく、失敗もありません。それは、物の仕組みを理解することと手を加えて作り直すことに関係しています。複数の機械、珍しい仕掛け、不揃いな物体が調和しながら機能することがtinkeringの真髄であり、その基本は遊びと調べごとを結びつけるプロセスといえます。–www.exploratorium.edu/tinkering
「Arduinoをはじめよう」より)

tinkeringこそが自ら学ぶということに他ならない。

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